「棚からぼた餅」は、労せずにいいものを得ることです。思いがけずに得られたので、もらった人は、トクをした気になります。
それがいいことなのかよくないことかと問われたら、間違いなく「よくない」ことです。棚からぼた餅は、基本的に「濡れ手で粟」と同じです。
なんの苦労もせずにぼた餅を手に入れられるのは、ラッキーではあります。運の強さを持っているということですが、再現性はありません。なんの努力もせずにぼた餅を手に入れるのは、結局はいいことではないです。
やはりぼた餅を手に入れたいのであれば、つくっている人から買うか、自らつくるほうがいいに決まっています。そのほうが得る喜びは、はるかに大きいものです。
何かを得るには、自ら行動するしかありません。「棚からぼた餅」がよくないのは、その行動意欲を奪ってしまうからです。
1度でも苦労せずにぼた餅を手に入れてしまうと、それが「普通」のことだと思ってしまいます。次にぼた餅が欲しくなっても、買いにいったり自らつくったりするという主体的な行動をしなくなります。
待っていれば、自然に(=なんの努力もせずに)手に入るとカン違いします。
当たり前ですが、ぼた餅が2度と手に入ることはありません。その確率は、限りなくゼロに近いです。
確率だけを言えば、買いにいったり自らつくったりするほうは、100%に近いです。だから「そうしたほうがいい」というのではありません。
ぼた餅を買いにいったり自らつくったりする人は、行動して何かを得ることの喜びを感じます。また「何もしないで得られるものはない」という人生の真理に行き着きます。手に入れるための努力を惜しまなくなります。
なんの努力もせずにぼた餅を手に入れてしまうと、「ラッキーだ」と喜ぶことはあっても、人生の真理に気づくこともありません。
その損失がどれほど大きなものなのか……、棚からぼた餅を得た人は、生涯気づくこともありません。
人生の真理を知らずにいることがどんなに恐ろしいことなのかは、改めて言うまでもないことです。
ぼた餅に限らす、得たいものがあるとしたら、自ら行動して手に入れていくしかありません。
(朝の独り言)
今週は、私のプログラムの卒業パーティーがあります。かなりハードなプログラムだったと思いますが、最後まで頑張ってくれたことに感謝です。北海道は、今日もかなり寒くまいります(^^)
昨日の忘年会での写真です。