2020.2.2.

「知らない」は罪になる、、、

若い人たちが古典について、なんのためらいもなく「知りません」と答えるのは、よくある光景です。

それに対して、年配の人が「そんなことも知らないのか」と、あきれたりビックリしたりするのも、ある意味ではお約束です。

反対に、年配の人が最新の流行について何も知らず、「そんなもののどこがいいんだ」と、憮然とするのも、見慣れた光景です。

流行についてバカにしたような態度をとる年配者に対して、若い人たちは内心で「ウザイ」とか「ダサい」と思っています。

古典と、最新の流行。どちらのほうが価値があるかと問われると、前者と答える人は多そうですが、必ずしもそうとも言えません。

前者と答える人は、一種の事大主義。後者と答える人は、思慮不足。
古くから伝わるものと、今流行っているものは、どちらも同じくらい価値があります。優劣をつけること自体が、ナンセンスです。

もし優劣をつける人がいるとすれば、今から100年とか200年あとの時代の人たちです。その時代には、今流行っているものも古くなっています。

今の時代の古典と同じ土俵で、どちらがすぐれているのか、評価してくれるはずです。

話を戻します。若い人たちが古典を知らないのも、年配者が最新の流行に無頓着なのも、同じ穴のムジナ。どちらもホメられたものではありません。

若い人たちも年配者も興味を持つ幅が狭すぎます。自分が「知らないこと」に対して、「どんなことだろう?」と、興味を持とうとしないのですから、知的向上心がなさすぎます。

「知らない」と、平然と口走るのは、罪です。決して言いすぎではありません。

知らないことは、あってもいいです。またあって、当たり前です。

その知らないことを理解しようとすることが、自分自身の成長につながっていきます。「知らない」ことに出合ったのに、そのままにしておくのは、あなた自身の成長を放棄することですから、自分への背信行為。

これを「罪」と呼ばずにいられるでしょうか。

知らないことに出合うのは、自分自身を成長させること。そのときは「どんなことだろう?」と、興味を持つ人でありたいものです。