「できる」と「できない」の間には、川のような大きな隔たりがあります。その川を見事に渡りきったとき、「できるようになった」と言っていいのかもしれません。
最初は誰もが「できない」側にいます。「できる」側に最初からいた人は皆無。どんな人であれ、「できない」側から「できる」側に移っています。
その方法は、人それぞれ。1人1人が方法を考えて、実行していったのは、間違いありません。
川を泳いで渡った人もいれば、棒高跳びの要領でジャンプしてひとっ跳びした人もいます。
あるいはいかだのようなものをつくって、漕いで渡った人もいそうです。また舟のようなより安全な乗り物をどこかから調達してきた人がいたとしても、おかしくはありません。
どんな方法にせよ、「できない」から「できる」に移ったのは事実。ほかにも渡る方法論はありますが、その優劣を問おうとすると、言いたいことの本質から外れてしまいます。
泳ぎ、棒高跳び、いかだ、舟……。
できるようになるまでの方法論の違いはあっていいです。その違いが、そのまま「個性」になっていきます。
泳ぎが得意なら、水が冷たくても川を渡りきればいい。棒高跳びが得意なら、天高くジャンプしてみる。いかだや舟を漕ぐのが得意なら、水の流れをしっかり見極めて渡っていく……。
好き嫌いや経済性、手間がかかる/かからないなど、選択を左右するいろいろな条件があります。それでも確実に「できない」から「できる」に移ろうとするなら、やはり得意を外すのは非現実的です。
できるようになるには、自分自身が得意とする方法でやっていきます。もちろん、一発で渡れることはまれです。
うまくいかなくても、自分自身が得意な方法で何度でも挑戦する――。そこにこだわると、何回かかるかは別として、「できない」から「できる」に見事に移ることができます。
あなたなら、どんな得意な方法で「できない」から「できる」へ移動するでしょうか。その方法で何回でもやっていけば、きっと「できる」ようになっていきます。