自分にとって「本当に大切なもの」は、案外すぐには見つかられないものです。程度の差はありますが、誰もが回り道を余儀なくされます。
それは、天の配剤なのでしょうか。それともただの偶然なのでしょうか……。
どちらが真実なのかは、瞬時には判断しかねます。それほど答えるのが難しい問題です。
回り道をするのは、たんにその人が自分自身の「価値観を明確にしていない」からかもしれません。その可能性は、たぶんにあります。
だからと言って、価値観が明確であれば、「回り道をしない」とも言えません。明確な価値観を持っていても、回り道する人は少なからずいます。
大切なものに気づけないでいるのは、もっと別なところに理由が存在します。それは、大切なものが日常生活にあふれているから。どこにでもあるから、逆に気づきにくくなっています。
それは、人によって違いますが、たとえば、家族との憩いのひととき。あるいは自分自身が童心に帰れる仲間との交流。自分で豆をひいてドリップしたコーヒーを飲む、わずかな時間……。
そうしたどこにでもあるようなものこそ、実は自分にとって大切なものだったりします。ありふれているから、「大切だ」と見抜けなくなってしまっています。
いろいろなところを探し回って、なかなか「これだ!」というものが見つからずに「どこにもないのかもしれない」とあきらめかけていたときに、ふと目にした日常的な光景……。
それを目の当たりにしたときに、「これだったんだ!」と気づく……。それが、本当に大切なものが見つかった瞬間です。
気づくのに、どれだけの時間がかかったでしょうか。どれだけ回り道をしたのでしょうか。
本当に大切なものに気づくと、たくさん回り道をしたことを「ムダだ」とか「不毛だ」とは思いません。むしろ回り道をしたからこそ、「気づくことができた」と実感しています。
大切なものは、すぐには見つからない……。やはりそれは、「天の配剤」と言うべきなのかもしれません。