どんな社会にも、常識やルール、慣習といったものがあります。それは、その社会が誕生したときからつくられ、カタチを変えながら今日まで続いています。
常識やルール、慣習ができたときからずっと原型をとどめていることなどあり得ません。時代や環境に応じて、それらは少しずつ変わりながら、今日まで残っています。
それゆえに頑迷固陋に守る必要はないのですが、ちょっとでも外れる行為をすると、抵抗や反発をされることがあります。
「常識外れだ」「ルールを守らないなんてけしからん」「暗黙の了解を破った」……
なぜこのように反対されるのかと言うと、理由があります。それは、2つ。
1つには常識やルール、慣習を「守って当然」と思っているから。その人たちにとっては、「守る」以外の選択肢がありません。
もう1つは、「抜け駆け」だから。守って当然と思っている人たちにも、「時代や環境に合わなくなっている」という思いはいくらかあります。
だからと言って、自ら真っ先に外れる勇気まで持っていません。内心では誰かが「外してくれる」のを期待していて、そういう人が目の前に現れたら「うらやましい」と思っています。
もっとも、それを素直に認めると自分自身の不作為を肯定することになるので、反対してしまいます。揺れ動く、複雑な心境にあると言えます。
反対する人たちがたくさんいる以上、いくら時代や環境に合わなくなったからと言って、露骨に常識やルール、慣習から外れるのも得策ではありません。「飛んで火にいる夏の虫」で、自ら大バッシングを受けにいくようなものです。
どうすれば反対を受けずに済むかと言うと、枠を広げてしまうこと。常識やルール、慣習には「ここからここまで」という目に見えない枠みたいなものが存在して、その外に出ると非難されてしまいます。
逆の見方をすると、枠内にあれば非難されないということ。枠を広げて、中に取り込んでしまえば、常識やルール、慣習の範囲内になります。
これなら「まぁ、許容範囲だ」と、渋々ながら納得してもらえるので、誰からも非難されずに済みます。
たとえ必要であっても、常識やルール、慣習から外れることをしようとするのは不要な摩擦を生むだけです。
その枠を思い切って広げてしまえば、わざわざ外れようとすることも、また摩擦を生むこともなくなります。