分かっていることと、分からないこと……。「どちらのほうが多いのか?」と問われれば、圧倒的に後者です。
どんなに頑張っても一生のうちに「分かった」と言えることなどあまりにも少なくて、「分からない」ことの何千分の一とか何万分の一ほど。それは、誰でも同じです。
「分からない」から、「なんだろう?」「どうなっているのかな?」「どうすればいいのかな?」と、知的興味や疑問を持つようになります。
最初から何もかも分かっていたら、知的興味や疑問を持つ必然性もありません。
分からないから、そのものごとを理解しようとします。
分からないから、調べたり研究したりするようになります。もしかしたら、分からないことがたくさんあるのは、天の配剤かもしれません。
分からないことを自分自身で調べたり研究したりすることで、これまで知り得なかった真実を把握したり、新しい法則やルールを身につけたり、存在しなかったものを創造したりできるようになります。「分からない」は、未知の世界に通じる入口です。
「分かるようになろう」と行動している最中は、その入口がどこに通じているのかは、見当もつきません。
人類史上の大発見に通じることもあれば、反対にたんに自分が知らないでいた常識的なことを遅まきながら理解するというやや情けない結末に至ることもあります。
それでもその入口を通過したからこそ、未知の世界を体験できたのも事実。分かったときには、これまで知らなかったことを1つ身につけたのですから、自分自身にとっては大きなプラスです。
どんなに分からないことがたくさんあったとしても、それらを1つずつでも理解できるようになれば、できること、やれることが増えていきます。それは、自分自身を成長させることであり、可能性を大きく広げること。
そうとらえていくと、分からないことがあるのはとても「楽しい」ことだと気づかされます。「分からない」という入口を通過していくと、未知の世界に行くことができます。
これを「楽しい」と言わずして、ほかになんと表現すればいいでしょうか。
分からないことがあるのは、決して恥ずかしいことではありません。また悪いことでもないです。本当に恥ずかしいのは、「分からないままでいる」ことです。