現代ほど欲しい知識、役に立つ情報をカンタンに手に入れられる時代は、ほかにありません。
求める知識や情報を手に入れるのは、すべて自分次第。一見すると、これはいいことずくめのように見えますが、見過ごされている弊害もあります。
1つは、知識・情報の格差が広がってしまうこと。欲しい人は積極的に求めようとしますが、なんの興味も関心も持たない人は手に入れようともしません。必然的に入手する知識情報量の差が、広がってしまいます。
もう1つは、認識の格差が広がること。これは、知識情報の格差とは別次元のことです。あふれるくらいの知識情報が流通するようになると、逆説的ですが、その1つ1つをしっかり理解しようとしなくなります。
知識情報がたくさんありすぎて、細かいところまで理解しようとすると、とても時間が足りなくなってきます。必然的にパっと目を通すだけで済ませてしまい、「なんとなく知っている」だけで理解した気になってきます。これが、認識不足の始まり。
別の言い方をすれば、アタマだけで理解しようとすること。どんなものごともアタマだけで理解しようとすると、机上の空論、書生論に陥りがちです。
これではアタマでっかちで、現実の世界をまったく知らないという、恐ろしい事態に引きずり込まれてしまいます。このアタマでっかちは、むしろ知識情報をたくさん入手しようとしている人にありがちな傾向です。
ものごとを本質まで理解しようと思うのなら、きちんと認識しなければなりません。認識とは、ものごとの是非をしっかり弁えたうえで、その本質をつかんでいくこと。
どんなに知識情報をたくさん入手したとしても、認識できていなければ、豚に真珠、猫に小判。手に入れたものを活かすことができず、宝の持ち腐れになってしまいます。
認識できるようになるには、得た知識情報をハラに落とし込んでいく必要があります。どうすればそれができるのかと言うと、1にも2にも実践していくこと。
実践することで知識情報が自分自身の実になっていきます。それは、アタマに残るのではなく、ハラに落ちていきます。
ハラに落ちていくほど、認識力が高まって、本質まで理解できるようになります。ここまでできる人は、それほど多くはありません。
あなたは今日、手に入れた知識情報をきちんと認識できましたか。しっかりハラまで落としていきましたか?