「宣誓! われわれ選手一同は、スポーツマンシップに則って、正々堂々と全力でプレーすることを誓います!」
高校野球の開会式では、選手の代表がこのように「宣誓する」のが習わしとなっています。
時代によって述べる言葉が変わることはあっても、概ね中身はフェアプレーと全身全霊をかけて戦うことがほとんどです。それは、一種の風物詩です。
選手宣誓は、観客のため、あるいは大会関係者やマスコミ、戦う相手チームのためにするのではありません。何よりも自分自身に対してするものです。
言い換えれば、自分との約束。選手宣誓があるからこそ、球児たちはその中身を自分の中に落とし込んでプレーするようになります。
選手宣誓をするのは、たくさんの球児の中のたった1人。とは言え、この代表者だけが、誓いを実践しようとするのではありません。
代表者が発した言葉は、選手1人1人のココロの声。あるいは魂の叫び。選手全員が、その言葉を噛みしめて、同じ思いを持ってプレーをしています。1人1人が、宣誓されたことを自分に対して約束しています。
宣誓と言うと、どうしてもセレモニーの一環のように見えてしまいますが、その実態は想像以上に重いものです。
もしこれがなければ、大差がついた試合では「もうムリだ」「絶対にダメだ」と早々にあきらめてしまって、投げやりになる選手も出てきます。
さすがにフェアプレーがなくなることはないにしても、「最後まであきらめないで戦う」という高校野球の美徳も失われてしまいます。
それは、選手1人1人が自分自身との約束をしていないから……。
何かをするときに「私は全力でやります」「あきらめずにトコトン食らいつきます」と宣誓するのは、セレモニーや自己アピールのように見えますが、本質はそうしたところにはありません。
あくまでも自分自身との約束。対外的なことは、二の次です。
宣誓するから、自分自身が本気になるし、ありとあらゆる努力をします。それは、自分自身と約束したから……。
何かを絶対に実現しようと思うのであれば、自分自身に対してなんらかの宣誓をすると、想像以上の効果があります。
なぜなら人は、自分自身と交わした約束を必死に守ろうとするものだから……。その約束を破ることを、自分自身が許しません。