成長することは、とてもうれしいことです。どんなジャンルであっても、またほんのちょっとであったとしても、そこにはほかでは得られない喜びがあります。
その喜びがあるからこそ、「もっと成長しよう」と思うようになります。なんの感情も得られなければ、おそらく「もういいや」とやめてしまう人が続出するかもしれません。
喜びが内包されているのは、成長するため――。それは、成長を促す仕組みとして最初からつくられていたような気もします。
自分自身が成長したとき、うれしいのは当然です。のみならず、誰かほかの人が成長したときも、喜びがあります。むしろ自分のこと以上に喜べるようになりたいものです。
たとえば、まったくつながりのない、見ず知らずの人が成長したとき。「ふーん、そうなんだ」と、他人事のようにおもってしまったとしたら、とてももったいないことです。「 スゴイ!」「頑張ったね、」「エライよ!」と、わがごとのように喜べるようになると、あなたはもっともっと伸びていきます。
人の成長を喜べるのは、実は自分自身が大いに刺激を受けているということにほかなりません。それは、成長という栄養を自分の中に取り入れるようなもの。
自分自身が努力すれば、もちろん、成長します。それは、自分の中で成長という栄養をつくり出しているから。
その栄養は、自分自身が努力する限り、つくられていきます。と言うことは、努力をやめてしまえば、つくり出すことができなくなります。
努力をやめれば、アッと言う間に栄養失調になります。これでは成長することもできないし、ドンドン退化していきます。この場合は、自業自得。同情の余地ナシ。
とは言え、いくら努力しても、なかなか成長できないこともあります。努力がすぐに成長に結びつかないケースになったとき、そのままでは栄養失調になりかねません。
それを回避するのが、ほかの人の成長を喜ぶこと。栄養を取り入れることで体力を回復させれば、努力を続けられます。
自力で成長することで、栄養を摂取できるようになります。誰かの成長は、やはり喜ぶべきことです。