仕事である程度の報酬を得たとすれば、それだけの努力や行動をしたということ。誰にも何かを言われる筋合いはなく、潔く、かつ堂々と手にするべきです。
頑張った分の対価をもらうのに、遠慮してはなりません。もし遠慮してしまったら、それは自分自身を過小評価してしまうことです。
その対価を得るためにどれほど頑張ったのかは、本人が一番よく分かっています。
直接そのものごとに取り組んだ期間はもちろん、知識を得てスキルを磨き経験を積むという一種の下積みとも言うべき前段階を含めると、かなりの長い年月がかかっています。
目の前にある対価は、相当長い期間をかけて得たということですから、むしろ「少ない」と言ってもいいくらいです。でき得れば、もっともらってもいいくらいです。
誰にとっても、またなんにでも言えることですが、実際に対価を手にするまでには、それまでの全人生がかかっています。
一見すると、成し遂げたこととはまったく関係なさそうに映ることも、深いところではかかわっていたりします。
たとえば、契約を1件獲得したと言っても、かけた時間はそのクライアントとの交渉の始まりから終わりまでという短い期間を指すのではありません。
生まれてきてから契約をとったその瞬間までが、かけた時間です。つまり、全人生。
その契約1件を獲得するまでには、知識・スキル・経験を蓄積するだけでなく、常にアップデートしていく必要があります。
そのクライアントのことを詳細に調べ上げ、最高の結果が出るようなオファーをして、ようやく契約が1件獲得できるということになります。
その契約1件は、それまでの全人生をかけて獲得したものです。こんなふうに言っても、決してオーバーではないことは、納得してもらえるはずです。
だからと言って、契約を1件とったから高額の報酬を手にするべきだと言いたいのではありません。
言いたいのは、1つのことを成し遂げるには、全人生をかけたと言ってもいいくらいの努力や行動をしなければならないし、だからこそ対価を低くしてはならないということです。
頑張った分の対価は、正当であるべきです。頑張った人には、それを主張する権利があります。頑張ったからこそ、正当な対価を得なければなりません。