「お忙しそうですね」「忙しいのはうれしいんですけどね。貧乏ヒマなしですよ」……
こんな他愛のない会話は、日常茶飯事。常日ごろ、あなたも何げなく使っているかもしれません。
忙しかろうが、そうでなかろうが、その人の自由。あくまでも会話のきっかけですから、こういう会話に意味はありません。
目くじらを立てるほどのことでもないと承知していますが、あえて言います。こういう会話は、自分の価値を下げるだけです。のみならず、自分自身をその言葉どおりの人間に導いてしまいます。
あなた自身、実際のところ、仕事に追われて忙しい思いをしています。加えて、忙しい割に「実入りが少ない」とも感じています。
それゆえに「貧乏ヒマなし」という言葉を使ってしまうのですが、自分がそういう人間だと自他ともに宣告していることにほかなりません。その言葉を使っている以上、あなたはそのとおりの人間になっていきます。
今も貧乏ヒマなし。恐ろしいことに、これからも貧乏ヒマなし。なぜならあなた自身がそれを望んでいるから……。
使っている言葉には、自分自身の潜在的な願望がハッキリ表れています。そのことを肌身にしみるほど感じている人は、驚くほど少ないです。
「貧乏ヒマなし」は、あなたの現実。またあなたの潜在的な願望。
その言葉を使っている限り、あなたはそのとおりの人間になります。それ以上の人間になることはあり得ません。
言葉とは、ただの文字。あるいは記号……。そんなふうに思っていると、「貧乏ヒマなし」のような、自分自身を軽く扱う言葉を平気で使うようになります。それが、好ましくないのは明らかです。
もし「お忙しそうですね」と言われたら、「忙しくてうれしい悲鳴を上げています」とでも答えたら、自分の価値を下げることはありません。自分自身を「忙しくてうれしい悲鳴を上げる」人間に導くことになります。
言葉は、自分自身を規定するもの。また自分自身を導くものです。使うのであれば、こうありたい」「こうなりたい」と思える言葉だけを選ぶべきです。